今日は

lazywhite2005-04-18

昼から大学のアルバイトの説明会に出席。そろそろ何かアルバイトしないと・・
図書館で清水先生の「白と黒で―写真と・・」を借りパラパラと目を通す。その中に、日本のカラー写真をMeyerowitzの系譜で読み解いている文章がある。たぶん、Meyerowitzのカラー写真の「色」は「透明な私」として機能していて、日本のカラー写真(川内倫子のような写真を想定している)の「色」も同様であるが、現代においてはその「透明な私」は「広告的主体」と等価物であり、その意味で、日本のカラー写真は広告の反復でしかない、という論旨だったと思う。Meyerowitzのカラー写真について彼の言葉を引用しながら「透明な私」を引っ張ってくるのだけれど、写真家が「透明な私」になりたい(もしくはなろうとして撮影する)からといって、見る人がその写真から「透明な私」の気分や感情を感じとるものなんだろうか?という疑問が残った。たしかに、Egglestonの写真と比べてみると、抑制されているとは感じるし結論にも共感するのだけれど。